音をクリエイトし、活躍している人をご紹介するコーナー「People of Sound」。このコーナーでは、制作者の人柄が、サウンドにどうつながっていくのかに注目。機材中心のレポートから少し離れ、楽しんでお読み下さい。

第17回目は、現在、弊社メールマガジン ROCK'in MAILMANでの連載「これだけは覚えておいて! 〜サウンド制作環境を見直す〜」でもおなじみの、レコーディングエンジニアの杉山勇司さんです。雑誌等ではPro Toolsを中心にした執筆など多くの機会で杉山さんのお名前を拝見しますが、キャリアスタートは1988年ということで、(失礼ですが!)意外と長く、普段お伺いできない、DAW以前のお話も聞けるんじゃないかと思い、現在講師をされている東京スクールオブミュージック専門学校渋谷内にあるスタジオにお邪魔し、お話をお伺いました。

2009年3月10日取材

〜大学の前に出来たスタジオ、バイトからのキャリアスタート〜

Rock oN:音楽へ目覚めたきっかけをお伺いできますか?

杉山勇司氏(以下 杉山):6歳年上の兄がベースをやっていたので、幼い頃はつきまとって兄の楽器を触りたがろうとしていた記憶があります。大人になって母親に聞いた話で、小学校に入った頃「ピアノを習いたい」と頼んで親から断られたという記憶があったんですが、母親が言うにはその逆で「習いたくない」と僕が言ったそうです。

でも、「ピアノを買ってくれ」と親に言った記憶はあるんですが、買ってもらったのがピアニカだったんです。次に「ギターを買ってくれ」と僕が言ったらしいんですけど、買ってもらったのはウクレレだったんです。子供にとっては、それでよかったんでしょうね。

実際にちゃんと楽器を触りだすのは高校に入るか入らない頃で、兄からYAMAKIのギターを買ってもらいました。弾き方を教えてもらうために兄にお願いしたところ、「じゃあ、これを練習しろ」とタブ譜を書いてくれたのがクリームのホワイトルームでした。

Rock oN:いきなり難しい〜(笑)。じゃあ、聞くのもお兄さんの影響が大きかったんですか?

杉山:中学の頃は歌謡曲くらいしか興味が無かったのですが、クイーンのボヘミアンラプソディを聞いて「これは何だ!」とびっくりしたんです。高校2年の頃から友達とバンドをやりだして僕はベースでした。その時は文化祭に出る程度で、本格的にライブハウスに出るようになったのは大学に入った後です。軽音楽部には学校から認められて予算がでる文化会と、そうでないサークルの2つがあったんですが、良く知らなくて文化会の方に入ったんです。週1回程度、部室で練習してました。

面白い先輩たちがいて、それまでに聴いたことがなかったドゥービー・ブラザーズやオーティス・レディング、ピーター・ガブリエルなど教えてもらいました。ジャズをやっていた先輩が、「ジャズなんかだめだ。これを聞け!」と教えてくれたのがU2の“New Years Day”でした(笑)。自分にとって、音楽的な意味で大きく変化する時期の1つでした。

3年になった頃、録音することに興味を持ち始めた時期で、たまたま麻雀で知り合った4年上の先輩がいて、その人は大阪でプロとして音楽の仕事をしていたんですが、「スタジオに機材を運ぶのを手伝ってくれ。」ということで、レコーディングスタジオに生まれて初めて行きました。これが「スタジオかー。」と感動したんです。その上に、そこのスタジオのプロデューサーが明石焼を、機材を運んだだけの僕の分まで用意してくれていて、「レコーディングはそんなに素晴らしい世界なのか!」とさらに感動(笑)。それが僕の出発点ですね(笑)。

その頃、「TEACが16チャンネル録れるレコーダーとミキサーのセットを150万円で出す」という画期的な事が起こったんですが、大学の前に新しく出来たリハーサルスタジオが、そのシステムを購入したと聞いたんです。知り合いがバイトをしていて、操作できる人がいないということも知り、「絶対入れてくれ」と頼み込んでバイトとして雇ってもらったんです。

Rock oN:そのスタジオではどんな仕事をされていたんですか?

杉山:基本はリハーサルスタジオですがレコーディングも出来たので、レコーディングの仕事も早いうちからやっていました。初めてそのスタジオに東京からプロのバンドが来た時があって(笑)、アーバン・ダンスと言うバンドで、次第に顔を覚えてもらうようになり、AKAI S612のデーターを当時出たばかりのS900へコンバートするという仕事を「僕、やります!」と買って出たんです。S900を触ったこともなかったのに(笑)。それで、当然のごとく、全部のデーターを消してしまうんです。「どうしよう〜。」となって、一晩かけて直したんですが、唯一、一音だけどうしても元の音に修復できない音があり、翌朝、ぐったりしながら「本当にすいません。」と謝ったら、「うん? あ〜、この音、グライコで切っただけ。」と言われて、「がくっ。」となった忘れられない事件がありました。

Rock oN:大阪から東京へ移られるのはいつですか?

杉山:大阪のスタジオには学生時代から含めて約3年いました。アーバン・ダンスが、ラフォーレミュージアム飯倉500で行われるFUJI AV LIVE という、当時、先端的な音楽をやっていたアーティストが出るイベントに出るというので、軽く「僕にも仕事ください。」と言ってみたら、「じゃあ、サンプラーにロードする人が足りないから来る?」と言われて、「行きます!行きます!」と行ったのが、初めての上京なんです(笑)。その後、いくつか東京のスタジオに行って面接し、あるスタジオに入って半年で辞めたんですが(笑)、大阪時代の知り合いのバンドのつてで東京にも知り合いがいて、ライブのPAエンジニアを頼まれたんです。

その頃バンドブームの時で、バンドも専任のミキサーを連れてくることが軽いステータスになっていたこともあり、対バン伝いに仕事が来るようになりました。その頃に森岡賢とも知り合い、ソフト・バレエの仕事にも繋がってます。くじら(Qujila)というバンドの仕事伝いに、東京スカパラダイス・オーケストラの仕事がきて、その頃から大きな仕事をやれるようになりました。

意外や意外。現在ではアーティスティックなミキサーというイメージがあった杉山さんですが、スタートは現場で鍛えてきたPAミキサー。さらに当時のニューウェイブ周辺のバンドやアーティストの名前が出て来て、個人的にも面白い話が続きます。

〜PAエンジニアからレコーディングエンジニアへ〜

Rock oN:ミュージシャン繋がりで仕事が来たんですね。PAエンジニアはどれくらい続けられたんですか?

杉山:28歳の時までです。スカパラのフランスツアーのPAと、ナーヴ・カッツェのレコーディングの仕事のスケジュールが重なってしまったのをきっかとしてPAの仕事は辞めました。

Rock oN:PAエンジニアとレコーディングエンジニア、どちらがいいといった興味はあったんですか?

杉山:それぞれの作法の違いはありますが、音を作るという意味で差はないです。CDはもちろん後に残りますが、ライブは1回こっきりだけど、一瞬でもいい音が出れば記憶にずっと残りますからね。PAエンジニア時代、色んな修羅場がありましたよ。

PAデビューだったライブで最後の曲の途中からハウリングが始まり、アンコール直前までの間、ずっと止まらなかったという悪夢のようなこともありました。それはスネアにかけたリバーブを、ドラマーが聞きたいと言うのでモニターに返してあげてたのが原因だったんですけど、その時はそれが分かんなかったんですね。他にも色んな失敗がありました。

でも、嬉しいこともあって、福岡の某ライブハウスでくじらをやった時に、お店の人に「このハコでこんなにいい音を鳴らしたのは初めてだ。」と言ってくれたんです。「グライコの設定をそのままにして欲しい。」と言われたので、そのままにして帰りました(笑)。PAエンジニア時代の経験のおかげで、僕はラフミックスを作るのが早いんですよ。ロンドンでソフトバレエのレコーディングをしてる時、ミキサーのフィル・ハーディングの前でさっさっとバランスを取って歌を録る準備をしたら、えらく驚いていて、自分でも「早いんだ、俺。」と思ったことがありました。これは、リハなしも多かったライブの現場で鍛えたからかでしょうね。

〜横入り? アシスタント経験ならではの処世術?〜

Rock oN:PAエンジニアからレコーディングエンジニアに移られた訳ですが、いわゆるレコーディングスタジオのマナーは実践で覚えて行ったんですか?

杉山:おっ、痛いところ突きますね(笑)。レコーディングエンジニアとして初めて行ったのは、忘れもしないビクタースタジオだったんですけど、僕と同じくらいの年齢のアシスタントが付いたんですが、なめられないようにと思って(笑)、先輩から借りていてたUREI 1176 Blackfaceを、あたかも普段使い込んでいるような感じで、わざわざ担いで持ち込んだんです。

そのアシスタントは「うちにも1176のシルバーがありますけど、こっちの方がいいんですよね!」とか言われて、僕は「あ〜、あるんだ、スタジオに。」と内心で思ったんですが、「うん、こっちをセットアップして下さい。」とすました感じで答えて(笑)。さらに、「僕、ニーヴのスタジオだったのでSSLが分からないので教えてもらっていいですかぁ?」と言ってごまかして(笑)。もちろん、ニーヴが置いてあるスタジオに行ったら、逆のことを言うんです(笑)。そういう感じで、かわして行きました。

Rock oN:いや、いや(笑)、レコーディング出来たんですよね?

(笑)出来ましたよ。後々になって、エンジニアとして僕の武器は何だったんだろうと思うと、やっぱり機材が操作できたことだと思います。打ち込みは、大阪時代にシーケンサーのYAMAHA QX21とシンセのDX7 II FDを使って、会社が取って来た演歌の打ち込みの仕事もやってました。東京に来て、サンプラーのAKAI S1000とDATのSONY DTC-500ES、デジタルミキサーのYAMAHA DMP11をローンで買いました。ライブの時にもS1000を持ち込んで、オーディオ信号をトリガーにして鳴らしてましたよ。なかなか上手く出なかったんですけどね(笑)。

打ち込みが出来たことはプラスになってました。当時はマニピュレーターを呼ぶか、ミュージシャン自身が操作するしかなかったので、エンジニアの僕が出来るとなると便利だったんでしょうね。30代の頃はレコーディングの機材より、シンセなんかを沢山持ち込むことが多かったです。ソフトバレエやナーヴ・カッツェのレコーディングでは、メンバーも機材に興味を持っていて、買ったらすぐに発表できる場があったので、お互い触発されながら新しい機材を沢山試してました。一時期、民族楽器にはまっていた時期もあって、田原町にあるJPCジャパンパーカッションセンターの会員だったんですけど、民族楽器もシンセやサンプラーの延長線上にあるものとして捉えて、自由な発想で使ってました。

Rock oN:その時点で、コンピューターレコーディングの可能性について、どう思ってましたか?

杉山:絶対主流になると思ってましたよ。世代的にデジタルレコーディングに嫌悪感もなかったし、「やっとコンピューターで出来るじゃん。」という感覚でした。 今買わないと5年後には仕事が無くなると思ったので、Digidesign Audiomedia IIを経てPro Tools IIIを買いました。

〜あのフィル・マンザネラのギターを…… !?〜

Rock oN:海外レコーディングに行かれてますよね?

杉山:最初はロンドンでソフトバレエですね。僕はボーカルの録りだけで、ミックスはフィル・ハーディングでした。次がナーヴ・カッツェのレコーディングで、ロンドンのMatrix Studioでした。アルバム2枚、17曲分を同時に録るというプランを自分たちで作り、予算を取って行いました。

Matrix Studioにはアナログしかないということが分かってたのですが、17曲分のマルチだとすごい荷物になるので、あえてテープスピードを38cm/secにし、ドルビーSRも入れるということに決めて、2inchのテープ 6本を担いで行きました。テープスピードが変わるということは、パンチインのタイミングも通常の76cm/secの時と変わるということで、それが大きなミスに繋がったんです(笑)。

Rock oN:何があったんですか?

杉山:フィル・マンザネラがレコーディングに参加したんですが、僕、彼のギターを消したんです(笑)。パンチインをしくじって……

Rock oN:どうしたんですか?

杉山:「あー、録れてなかった!!」と気付いて内心どきどきしたんですが、一応、プロデューサーでもあったので、「さっきのテイク、あんまり良くなかったので、もう一度やりましょうか!」と平静を装って言ったら「うん。」と言ってくれて(笑)。「やべ〜、ロキシー・ミュージックのギターの人の演奏を消しちゃったよ。」とあせりました(笑)。

〜時代を先取り、ネットワークによる音楽制作の苦労秘話〜

杉山:それまでは、海外のアーティストなりスタジオの音を手に入れるには、現地に行くしかなかったんですが、ナーヴ・カッツェのリミックスのCDでは、ネットを使って海外のアーティストとやり取りをしたんです。今じゃ当たり前になっているけど、1994年当時はTCP/IPのモジュールは別売りオプションだったし、色々大変でした。

向こうのアーティストが「歌詞の意味を知りたい。」と言うんで英語と日本語のPICTファイルにしてネットで送ったり、ラフが出来たといって30秒くらいのファイルを送ってくれたりして、僕は「なんて素晴らしいんだ!」と興奮したんだけど、周りのみんなはピンとこなくて「ふーん。」程度の反応しかなくて、がっかりしたことがありました(笑)。

でも、創意工夫で何とかやりくりしてきた当時からずいぶん時が経ってる訳だけど、「今の時点でもこんな程度しかテクノロジーは進歩してないのかぁ。」とちょっとがっかりもしてます。本当にテクノロジーが進歩していないのか、作り手が進歩していないのかはわからないけれど。

Rock oN:最後にですが、杉山さんにとって音楽とは?

杉山:さらりと言うけど、お金を稼ぐ手段、仕事ですね。同時に、「今やってて良かった。」と心から思う仕事でもあるので、とても恵まれてるんだなと思います。昨日もミュージカルの映画を観ただけで、「音楽はすごいなぁ。」と本気で泣くんですからね。

「アーティスティックなエンジニア」杉山さんのイメージを一言でいえば、そうなるでしょうか。上京後のPAエンジニア時代、どこにも属されてないにも関わらず、アーティスト伝いに仕事がきたのは、音の良さも勿論でしょうが、アーティストに対しても何か触発するようなテイストが杉山さんの作る音の中にあったからでしょう。お話の中に関わられたアーティストの名前が沢山出て来ますが、その時代にセンスで先を行っていた人たちばかり。フィル・マンザネラのの件はとても笑えましたが、ご自分の失敗談もオープンに話して頂き、日頃クールな印象の杉山さんとは違った一面を垣間みれたインタビューとなりました。

このコーナーでは、音を作り出す活動をされている方の出演を募集しています。ミュージシャン、サウンドエンジニア、作曲家、アレンジャー、はたまた音効さんや声優さんなどなど。音楽機材に興味を持っているかたなら、なおOKです。お気軽に、下アドレスまでご連絡下さい。また、ご感想、ご希望等もお待ちしております。連絡先アドレス : store-support@miroc.co.jp

ROCK ON PRO、Rock oN Companyがお手伝いさせていただいております!

Pro Tools HD、VENUEシステムをはじめ、ROCK ON PROでは業務用スタジオから、個人の制作環境を整えたい方まで様々なレンジに幅広く対応致します。専任スタッフが、豊富な納品実績のノウハウをもとに機材選定から設計/施行、アフターケアにいたるまで全て承ります。また、レコーディング機材をはじめ、楽器のご購入や中古商品、機材買い取りのご相談はRock oN Company渋谷店へお気軽にお問い合わせ下さい!